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快楽と言葉
今から数年前、和歌山の本宮に行った時にここの自然は怖いと思った。
一歩山に入ると日の光さえ届かぬ闇があった。
大木の向こうからは何者かの気配を感じたし、川で泳いだが底すら見えない黒い深さからは何かが潜んでこちらを伺っている気がした。ヒトは昔から自然と戦ってきたのだと感じた。
しかし、その自然の闇を恐れるのはどうやらヒトだけらしい。 ウチの犬は平気で山にも入っていったし、川でも潜ったからだ。
その違いは一体何なのか?
動物だからといってしまうのは簡単である。
しかし、それは犬を知らぬものの理屈だ。人間も動物である以上その理屈は当てはまらない。
生まれ育った環境でもない。
ウチの犬は、産まれた目もまだ開いていない状態から育てたからだ。
怖いという感情、または怖いと思う想像力を犬は持ち合わせてはいない…それも違う。
ウチの犬は初めていく公園のワケのわからないライオンのイスとか、オブジェっぽいゴミ箱に非常に恐れを抱く。
それでは、どこが違うのか?
言葉である。
ヒトは考える時、言葉というシンボル体系を使う。
言葉の他で考えることはできないのだ。
しかし動物はシンボル体系に依存しない言葉を操る。
アメリカの犬も日本の犬も鼻をひとつ鳴らすだけで実に多くの情報を瞬時にやりとりするのだ。
ヒトは言葉が内包する論理でしか考えられない。しかし、その言葉と論理は現実を完全にはとらえてはいないのである。
言葉と論理の上に築き上げられた砂の都市。それがヒトの文化であり、常識であり、壮大なフィクションなのだ。
だから、暗記していない情報の前で固まってしまうのだ。
言葉という考え方を会得していない子供は犬と同じく闇を恐れない。
Ytimrofnocというアングラ映画がある。
主人公がある日、覚めて町に出ると、道ゆく人が皆、後ろ向きに歩いている。
人どころか自動車や犬やネコまでが後ろ向きに歩いている。 主人公はしばらく唖然としているがやがて自分も後ろ向きに歩きだすというカルトな映画だ。
Conformity(順応)を逆に綴ったタイトルのこの映画はヒトだけが持つ社会形成維持本能を表す傑作だ。
ヒトの命がかかっているにも関わらず、上司のいいつけを守った厚生省の官僚や、ヒトの種の存続を危うくする戦争兵器をつくった企業を笑う資格はない。
大極よりも身近なコミュニティを優先するのがヒトの価値観だからだ。
ヒトの命は地球よりも重いのだ。そのためには、自己保存本能や種族保存本能などの動物的本能は犠牲にされる。
つまり、我々は本質的な事象を言葉という論理の力で闇の彼方に押しやることにより、自然と戦い社会を作り上げてきた。
ここまで読めめば言葉という論理がいかに不完全なものかおわかりだろう。
私は嘘しかいいませんという矛盾を言葉はいまだに解決できないのだ。
しかし、犬はその矛盾を解決できる能力を備えている。
なぜなら、常識に依存しないコミュニティの在り方を知っているから。
犬の社会はけっして間違いを犯さない。
後ろ向きに歩く犬が100匹いても、目覚めた犬は前向きに歩くからだ。
すべての現実をふくめて本質的な平等を心得ているからだ。
それはあの世の光がこの世の闇であること、そしてあの世の闇がこの世の光であることを生まれながらに知っているからに他ならない。
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