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ルールとデモクラシー

ある高校の校則では、カゴ付き自転車は禁止されている。
その理由はカバンの重さにハンドルをとられ危ないから。

また、ある小学校ではサッカーが骨折の原因となる恐れがあることから授業に取り入れられていない。

某テナントでは、子供が走りまわり大声をあげるが、しつけの完璧にできたセラピードッグである犬は犬というだけで立ち入り禁止だ。

これらのマニュアルが最近壊れかけている。

サッカーして骨おるんやったら、歩いていても骨おるでとは誰もが声にする意見だが、マニュアルを廃止しようという意見にまでは至らない。

戦前までは、民主主義は衆愚主義という悪い意味として使われていた。差別が色濃く世界的に残っていたこともその原因であろう。

しかし、今のマニュアルは平均化の上に構築されたものであるから、衆愚主義にフタをしただけのもののでしかないのではないだろうか。

先日、ある雑誌の仕事で行った調査の結果、公共施設の利用率がかなり低いことがわかった。積極的な公共施設利用を敬遠させる原因として、どんなサービスが受けられるのかわからない。 次に制約が多そうだからという2つの意見があった。

つまり積極的な情報収集をしないから使わない。使わないから情報収集をしないの堂々巡りなのだ。

この図式は加古川市をはじめ、町内会や各種団体、会社組織にも当てはまるものだ。 戦後の日本の高度成長とともに国も含めて組織というものに導入されたのがクオリティーコントロールの発想である。

その発想は規律規則というものをつくりだし、本来は宗教や道徳の分野であったものを生産性という名のもとにとって変える思想だ。

今のマニュアル的社会規律はその産物である。そして、現在の民主主義(デモクラシー)は、そのマニュアルの上にかぶせた自由主義なのではないだろうか?

自由主義とは権力に対する壁をつくることで、民主主義はこの壁を取り払って権力に参加を求める思想と運動のことである。 したがって民主主義の究極の理想は、社会の構成要員の主体的な政治参加を意味する。

しかし、そこには組織の構成要員の教育とネットワーク化が必要不可欠なのである。 つまり、デモクラシーはマニュアルの上には決してかぶさらない。

規律規制によってクオリティーを高めようという発想とは対局に位置するものではないだろうか。